夜叉の住む沼。
遡行しようと思っていた瓶石(かめいし)沢の周辺を衛星写真で何気なく眺めていた。すると、三峰山のすぐ下、北丸松保沢の源頭近くに沼がみえた。地形図に沼の記載は無い。船形山主稜線から幾ばくも離れていない。山上湖だ。
衛星写真と地形図を重ねて、仔細に位置を照合してみると現地測量を表す標高点(・1233)のすぐ近くだった。標高1200m超えの沼というわけだ。船形山山頂から北西にある地図上の鏡ヶ池に目をやる。こちらも標高点(・1202)がすぐそばに打たれている。標高的には同じぐらいの沼である。とはいえ、鏡ヶ池は、船形山、薬師森、前船形山に囲まれるような鞍部に位置しており、山中に佇む池といった趣きだ。一方、三峰山の沼は稜線のすぐそばに位置しており 山上の湖沼だった。[該当域の地形図]
「三峰山に山上湖がある。蛇ヶ岳の草原の近くだしサンショウウオが大量にいるかもしれない。」仲間にラインで報告した。「サンショウウオと一緒に泳ごう!蒲焼きにすっぺ!」すぐに返信があった。いや、泳がないし、食わんがな。
どの沢の源頭から降りて現地に向かおうか。もう暑いから登山道だるいし小雨の日に行こう。蛇ヶ岳の草原はトキソウが花盛りだな。ワクワク ワイワイ と予定を立てるが、この沼の呼び名に困った。”三峰山の山上湖” 長い。”北丸松沼” なんか違う。ほどなくすると、我々は、サンショウウオがたくさん生息する(であろう)沼、”サンショウ沼” と呼ぶようになっていた。熟慮も想いの欠片もない。安易で浅はかだ。そもそも、サンショウウオ、いるのか知らんし。
今週末サンショウ沼行けっかな。今週末蒲焼き出来っかな。今週末サンショウと一緒に泳げっかな。お目当ての穏やかな小雨の週末が来ず、何度かやり過ごした。梅雨も末期の7月の第一週。適した週末がやってきた。日曜、早起きして いそいそと登山口に向かった。小雨の中 準備をしていると、一台の車がやってきた。こんな日にこんなとこまでやってくるのは大概顔見知りだ。ロマンスグレー、いつも穏やかに微笑む彼の(かの)人だった。寡黙に静かに微笑むかっこいいオジサマ、なんて言ったら叱られちゃうかもしれないが、なんかそんな雰囲気を持つ人だ。これ幸いと、地形図を片手に沼のことを聞きに行く。「うん、知ってるよー、蛇ヶ岳の近くから見えるから、知ってる人も多いよね。」 名前があるのか、名前を付けているのかと聞いてみた。彼の人は、薬師森の麓に極稀に現れるという幻の沼に、たいそう素敵な名前を付けていた人なのだ。「無いはずだけど、僕は 夜叉ヶ池 と呼んでるんだ、まだ行ったことはないんだけどね。」 夜叉ケ池……。ヤシャビシャクの夜叉。なんで夜叉? 聞いてみる。「ほら、あんな山奥のあんな場所にあるのだから、夜叉が住んでいてもおかしくないからね。」 ちょっと照れた感じでその名付けの由来を教えてくれた。
挨拶を済ますと我々は蛇ヶ岳へ向かった。「夜叉ケ池だってよ。」やっぱ俺らとは違うな。鏡ヶ池と標高的にも場所的にも遠くないわけで韻を合わせて “ケ池” としたのだろうか。また、深山の山上にあるような場所からして夜叉が住む。おまけに希少なヤシャビシャクが植生する山域。なので “夜叉” 。さすがだわ。風流だわ。サンショウ サンショウ なんて軽薄に呼んでいたことにちょっと気恥ずかしさを感じながら 登山道を歩き蛇ヶ岳へ向かった。夜叉かぁ。イカシタ名前だなぁ。なんて思いながら。
さて、沼の探索だ。源頭を降り、斜面を上がり、藪の中を探し回った。ところにより藪は濃かったがいつものことだ。かき分けて藪を漕いで歩ける程度ならなんとかなるものだ。いつしかの北面白山山頂直下のあの藪に比べればどうということはないと最近は思うようになった。あれはひどかった。手分けして探していると眼前に唐突にそれが見えた。藪の中にこつ然と沼が現れたのだった。沼は……なんというかあれだった。その、あれだ、臭かった。そして ずぶずぶ も ずぶずぶ だった。周囲には沼臭さというか硫黄臭が漂っていた。ずぶずぶ ながらも周囲を一周した相棒によると対面あたりはすごい硫黄臭かったそうだ。ここで大休止を取った。小雨降る中、沼を見ながら、硫黄臭をつまみにお握りを頬張る。我々はふと目を合わせると同じことを考えていたように同時に言った。「うん、サンショウ沼でいいな。」
帰り道、稜線と草原では雨がやみ、びっくりの晴天となったが、草原を過ぎて沢に沿ったガレ道を降りる頃には強い雨が降ってきた。カッパを着直したり なんだりしていたときに、我々はしばし離れて歩いた。ほんの僅かな距離と時間。片方が神隠しにあったように登山道から消えた。いや、道をちょっと外しただけなのだが。いや、片方ってわたしなんだが。その僅かな時間に2人は交差した。よくあるパターンだ。片方は先を行ってると思っている相手を追いかけ、片方は後ろにいると思っている相手を待ちながら進む。その後、なかなか出会えないまま時が過ぎる。ちょっとまずいと思い、移動をやめて、ザックを置き 笛を吹きながら相棒を探す。しかし雨音と沢音に笛の音が飲み込まれる。雨の中、なかなか合流できずに小一時間が経過する。次第に周囲は暗くなっていった。
工学系出身で、サイエンスをこよなく信奉するわたしは この手の怖い話はまったく気にしない口だが、翌朝、相棒にラインをしてみた。「やっぱ、夜叉がいるのかもしれん、鬼夜叉による神隠しにあったのかもしれん・・・。」 すぐに返事が来た。「僕は科学を信じる。😆 君もオカルトじゃなく、科学を信じてください。🤣」
うっせーハゲ(・x・)