登山に自己責任は通用しない

 

 

おっかなくも心が揺さぶられるほどに美しい神室連峰

 


 

 

こんな題目を掲げてしまえば、山をしている人たちからは何を言い出すんだと睨まれてしまうかもしれない。しかし、そんなお話である。とある書籍の解説文を読んで、自分の中にぼんやりとゆらめいていた考えと符合する部分もあったので、こんなことを書く気になった。

 

 

こんなことを書けば書くほど、周囲の人は離れていくかもしれないが(笑)

 

 

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自己責任という言葉

 

登山をしていれば耳にする言葉に 「自己責任」 というものがある。「登山は自己責任で」 「この林道を走行するなら自己責任で」  よく聞く言葉だ。しかし、山においてこの言葉を聞くと妙な居心地の悪さを感じていた。他者から言われるならまだしろ、自ら発するのであれば、「自己責任」 という言葉にいろんなものを隠して、これから為す行為を正当化しているようにさえ思えるのだ。そもそもが、山に行って何か大事故を起こせば、現実には自己の責任の範囲で収めることなど出来ないと思っている。

 

話を進める前に「自己責任」の定義についてはどうなっているのだろうか調べるとWikipediaにはこうある。

 

第一に、「自己の危険において為したことについては、他人に頼り、他人をあてにするのでなく、何よりもまず自分が責任を負う」
第二に、「個人は自己の過失ある行為についてのみ責任を負う」
第三に、「個人は自己の選択した全ての行為に対して、発生する責任を負う」

 

いろいろな使われ方がある。登山で「自己責任」という言葉が使われた場合でも、人によって捉え方はいろいろあるだろう。ところで、 「自己責任」という言葉。よく耳にするようになったのは、政府(外務省)が、危険をかえりみずに紛争地に赴くジャーナリストに使うようになってから一気に広まったようにも思う。金融や、証券業界など、投資の世界でもよく目にする言葉だ。社会に生きるものを戒める言葉としては、なかなか立派な言葉ではあるのだが、他者が当事者に対して使うときには、”てめーの失敗はてめーでなんとかしろよ、おらに責任はねーからな”  と言っているに過ぎない。

 

 

登山における「自己責任」とは何なのだろう。

 

第一、第二、はたまた、第三、いずれの意味で使われているのであろうか。私は、第四、あるいは、「自己責任は成り立たない」と考えている。

 

なぜ成り立たないのか?

 

金銭的な意味においては、遭難すれば救助活動が行われる。行政の予算が使われることになる。怪我を負えば、医療費として税金の補填を受けることになる。社会的な意味においては、事故を起こせば責任を問われる。しかし、何をすれば自己の責任を果たせるのだろうか。とんと分からない。社会に対して謝れば、自己責任の登山において事故を起こしたことの責任を果たしたことになるのだろうか。人間関係においてもこれまた難しい。遭難死亡事故を起こしたときに、家族、友人、知人に対して自己の責任を果たすとは、一体何をしておけば、あるいは、何をすれば果たせるのだろうか。

 

何か事が起これば自己の責任では始末を付けられないというのに「自己責任」という言葉を持ち出す意味はどこにあるのであろう。

 

 

 

「自己責任」、ではなく、「他者に責任を持て」 

 

ではないだろうか。

 

「他者に責任を持て」 とは?

 

山行の同行者の場合はその安全に気を配ることになろう。里で待つ家族がいるならば、無事に帰れるよう心がけることになろう。同じ趣味を持つ登山者に対して、事故を起こしたらその顛末を登山者同士で共有するのも1つの責任の取り方だろう。面倒くさいやつと思われるのを分かっていようが啓蒙的な事を発信するのも一つだろう。他にも他者はたくさんいる。山道や施設を保全する活動をしている人。救助活動をされている人。山には関係ない暮らしをしている人。社会。・・・と他者はどこまでも広がるが、僕ら登山をする者は、その行為の代償として、これら他者に対して責任を有しているのだと思っている。そもそも自己責任なんてものは、社会で生きるそれそのものに否応なく自己責任を宿しているのだから。

 

つまり、他者に対して社会的な責任を持つことこそが本質なのであるが、それを巧妙に隠してしまうのが「自己責任」という言葉なのではないだろうか。ということで、登山における「自己責任」とは、「他者に責任を持つ」 ことだと考えている。

 

 

 

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登山届を出すのも、ココヘリを持つのも、登山が自己責任だから、ではない。自己の責任で完結できるならこんなもの要らない。出したくもないし、持ちたくもない。

自己で責任を取れない以上、他者に対して責任を持たなければならないからだ。

 

 

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角幡唯介という冒険家とノンフィクション作家をやっている異色な方がおられる。早稲田探検部OBで、朝日新聞に入社、その後退職して、本もいくつか出されている。今年、どこかのノンフィクション大賞を受賞したそうだ。「極夜行」。一日中、陽が上がらない季節の北極を旅した際のノンフィクションだ。とてもおもしろそうな書籍である。

 

また、宮城公博という沢ヤがいる。那智の滝を登攀して社会的な事件となったことは知る人は多いであろうが、その登攀者の一人だ。トップクラスのアルパインクライミングの実力を持ちながら、沢ヤであり続け、冒険ヤでもあり続け、野人のように好き勝手生きている人だ。

 

とある人が、この二人ともども「野人」と評しているが、この「野人達」は文章を書かせれば何とも聡明で論理的な文章を書く。この宮城氏が著した「外道クライマー」。読んだことはないのだが面白そうだ。そしてこの宮城氏のこの著作を角幡氏が解説文(書評)がある。この解説文が実に面白い。

 

 

解説文(リンク)

「登山の反社会性」
「登山行為が本来抱えている原罪を露骨にあぶりだしたことにある。」
「社会の内に留まるスポーツ的行為に変質させて、社会適合者であることを装っているのだ。」
「自由であればあるほど満足感が高くなるという登山の本質は、管理された社会のモラルとはどうしても齟齬をきたす」