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菌糸とウイルス

マイタケ菌


 

菌糸とウイルス。どことなく似ている。インフルエンザのウイルスとなると、電子顕微鏡ででも覗かなければ目では見えない。キノコの菌糸も小さい。せいぜい数十ミクロン。100ミクロンで0.1mmであるから、1つの菌糸を特定して目で見るのは困難だ。ともに見えないほど小さいということで共通する。しかし、現代の世の中には、何を使っても見えないウイルスもいる。というより実体をもたないのだ。そう、コンピューターウイルスである。こいつはすごい。何しろ人が作ったウイルスで、人が作ったコンピュータに感染するのだ。生命の定義を個体の増加と捉えれば、コンピューターウイルスも一種の生命体である。見方を変えれば人が創造主になったともいえるのではないだろうか。人はある側面では神になりつつあるのかもしれない。コンピューターウイルスをデジタルの空間での生命と考えるならば機械版生命も育ちつつある。ロボットである。ロボットが社会を作るような映画は昔よくあった。あながち現実化しないという根拠はどこにもない。ロボットがロボットを作り、ロボットが世の中で何らかの活動を続ける社会が生まれてしまえばそれはもうロボットが生命体になったといっても過言ではないだろう。

 

話が逸れた。私が学生時代の頃、コンピューターが一般家庭にも普及し始めた。私はというと、小学2年生(1980年)ぐらいの頃からコンピューターで遊んでいる。父の慧眼だったのだろうか。当時流行りだしたファミコンとかのゲーム機の類は一切買ってもらえなかった。しかしその頃はまだ高かったコンピューターなるものを買い与えられた。いや、与えられた訳ではない。借金だ。あまり覚えていないが、その後6,7年に渡って、手伝いだのお小遣い減額だのを伴って返済していった記憶がある。返済がまだ半分以上残っていた、あれは1985年。父からとある提案があった。1985年といえば桑田清原のPL学園で一世を風靡していたあの時代である。借金と何の関係があるのかと思われるだろうが関係あるのだ。桑田清原のPL学園に完膚無きまで叩きのめされていた東海大山形。見るも惨めであった。5対29の9回表。なんと屈辱的な清原の登板。私は父とテレビで観戦していた。PL好きの私でもさすがに隣県山形に対するあまりの仕打ちに憤慨した。ふざけんな!

 

そんな時、父からとある提案。「おい、賭けるか。」と。「俺は山形が勝つ方に賭けるから、お前はPLに掛けろ。賭けに勝ったらパソコンの借金ちゃらにしてやる。」と。まだ半分ある借金。父の優しさであったのだろう。チャラにする機会をくれてやると。いやバブルが始まりつつある当時、会社員である父にも余裕があったのかもしれない。しかし父には厳しさもあった。「だが、もしPLが負けたら借金倍な。」と。つまりは半分になった借金が倍戻しである。5年かけて減ったものが元に戻るのだ。これはつらい。99%、いや、99.999%PLが勝つのは間違いないが、12歳の子供にとって、5年前に戻るというのは人生がほぼ全て戻ることを意味する。そのぐらいに12歳の子供にとって5年は重い。賭けに乗るか反るか、私は悩みに悩んだ。決断できないまま甲子園のプレーは進行する。9回表、アウトカウントが1つ増える度に父は言う。1アウトで決めるなら3倍返し。2アウトで決めるなら4倍。2アウト2ストライクになったら10倍。顔を真っ青や真っ赤にしながら決断できない私をからかって遊んでいるに違いない。冷静な判断など下させるはずもない。

 

 

結局私は賭けに乗れないまま東海大山形はPLに破れた。

 

 

東海大山形の選手にも負けず劣らず悔しい思いをした私は、ふがいない自分の決断力を悔いた。

そして泣き顔になりながら裏山に何かをしばらく投げつけていた(笑)

 

 

今思っても仕方がない。5年巻き戻るリスクを取るのは当時の私には出来ない話だったのだ。賭けに乗るにはあまりにリスクが高かった。などとカッコイイ書き方をしているだけで、単に5年振り出しに戻ることにビビっただけである(笑) 今ではいい思い出だ。

 

 


PL学園 対 東海大山形 (5対29、PL清原のまさかの登板。隣県宮城県人にとっても屈辱なるシーン、1985年)

 

 

その後、返済がどうなったのかは実はよく覚えていない。バブルに乗って、父が勤めるゼネコンも好景気を享受。父の給与もあがっていったのかもしれない。何となく小遣いも増えていった記憶もある。そこから返済したか、無くしてもらったのかもしれないがよく覚えていない。ともあれ、私はコンピューターというものから離れたり、また、戻ったりしながら学生時代を迎えた。当時は、インターネットとウィンドウズの覇権の時代到来の諸端となる1995年頃だったかと思う。パソコンに詳しい人もほとんどおらず、家庭に普及しつつあったパソコンに不具合が出るとよくお呼びがかかった。プリンタが動かない。ウィンドウズが起動しない。何かおかしい。こんな時、私は、友人や、知人や、知人の知人の家に駆けつけた。修理するのは好きだったのだ。修理する代価として当然報酬も頂いていた。夕飯という報酬を。パソコンを直す。家の人喜ぶ。私はご飯にありつける。みんなハッピー。古き良き時代だ。

 

ところが私は、たまに別の報酬もこっそり頂いていた。それがウイルスである。稀に、PCの不具合がウイルスが原因であったこともあったのだ。また、不具合はないものの、一応ウイルススキャンをするとウイルスが出てくることもあったのだ。そんなウイルスを見つけると私はささっとフロッピーディスクを取り出して、いそいそとそのウイルスを収集する。変人だとは思わないでほしい。収集とは人の文化的行動である。そして私はウイルス収集記録ノートに記す。199◯年◯月◯日、◯◯さん自宅PC、Worm A.B.troi、症状◯◯◯・・・等々。変人だとは思わないでほしい。記録とは人の学習的行動である。自宅に帰るとウイルスを大事に保管する。かわいいやつだと思いながら。変人だとは思わないでほしい。自分で捕まえてきたものに愛情が沸くのは、人の母性的本能である。そんなことを数年しているうちにウイルスも1000匹を超えた。多すぎだろ!まあ仕方無い。私の精力的な活動の証である。そして、何を血迷ったか、行き過ぎた興味で持ってウイルスを自分で作ったこともあった。変人だとは思わないでほしい。何かを作るというのは人の建設的行動である。しかし安心してほしい。ネットにばらまくようなことはやっていない。自宅のサブPCに感染させてPCが壊れる様を見て喜んでいただけだ。変人だとは思わないでほしい。破壊行動というのは人がもつ健全な精神である。いや、そろそろ認めよう、もはや変人である。誰しも若い頃はやんちゃするものである。

 

その後、時は過ぎ、そんな私も社会人となり、とあるメーカーの研究所勤務となった。コンピューターにある程度精通している技量を買われ、私は部署内のIT管理者を拝命した。勢い余った私は部署内のLANを監視する体制を整えた。通信に異常があれば視覚的に認識できるソフトウェアを導入し、監視体制万全なる状態で管理に目をこらしていた。ここまでは順調であった。しかし事件は思いもかけず訪れるものである。

 

ある日、私は例のウイルスを思い出した。そういえばあれどこだっけなと、CDに全て保管しておいたウイルスを探すと間もなく自宅の奥底に発見。何を思ったか会社に持っていった。別にばらまこうというのではない。当たり前だ。確認してみたかっただけだ。就業時間も終わり、私は一人となっていた。何となくCDをPCに差し込み、中身を久しぶりに見ようと思った。当時はまだ外部持ち込みのデータに対するセキュリティなど遠い昔であったのだ。

 

ずらりと並ぶウイルスを確認してほくそ笑む。眺めるだけならウイルスは凍結されたままである。危険はない。帰ろうと思ったその時、マウスさばきに間違いが起こった。ウイルスを全選択してダブルクリック。つまりは実行だ。狂気の沙汰である。焦った。中にはダブルクリックで活動を開始するウイルスもいるのだ。とんでもないことをやっちまったぜ!で済む話ではない。私は焦りに焦った。とりあえず状況確認。くだんのネットワーク監視ソフトを立ち上げ異常がないかをモニターする。異常信号でまくりである。急激な通信量増加が見て取れる、異常信号が点灯しっぱなしである。急いで私は部署内の根本にあるLAN回線を引っこ抜く。外に漏れたら大変なことになる。まあ焦ったところでウイルスは早い。無駄なのであるが。

 

その後どうなったかというとウイルス騒動は、研究所レベルでの大騒動にはならずに済んだ。私の会社員生命はなんとか一命をとりとめた。ウイルスが古すぎたせいでウイルス対策ソフトにも余裕で対処可能な、か弱いウイルスだけだったのだ。結果、広がることはなかった。私はそのまま夜に数時間かけて自分のPCと何台かのPCからいくつかのウイルスを駆除。疲労困憊で家に帰宅した。家に帰り、残業お疲れ様、と言われたときには心が傷んだのはいうまでもない。

 

話がそれた。いやそれてはいない。これで話は終わりである。何が言いたいのかというと、私は、菌糸もキノコもコンピューターウイルスも好きだということだ。

 

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