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草と茸

雪中ナメコ


 

草と茸。そういえば字ずらが似ている。”茸”の字の成り立ちをぐぐってみると、耳のような草が茂るから茸(きのこ)らしい。ふむふむ。ついでに”草”成り立ちも見てみたが、説明を読んでも意味が分からない。学生の頃も、今も、漢文や古文はとんと苦手なのだ。説明や解説を読んでも意味が分からない。何度読んでもあやふやにしかみえなくて頭に入ってこない。それに比べれば、微分積分の立式の流れは何と美しいことか。人には得手不得手があるのだろう。

 

ところでキノコ採り。キノコを森のなかで探して採る。心の奥底から、情熱が溢れてほとばしる(言いすぎだ)のだが、コゴミやワラビやタラの芽などの草っぱはイマイチ情熱が不足する。採れるところが分かっているところなら行く気にもなるが、1日潰して探してまで採りに行こうって気にならない。甘くて美味しい山ぶどうやイチゴやアケビもそれに類いする。採れるところはいくつか覚えたので時期が来れば覗いてみる程度はする。しかしそこまでだ。採取場所をさらに探し回ろうという気にはあまりなれない。

 

 

ナラタケの後処理

 

 

 

 

 

 

また、大量に採ってきたキノコの後処理は大変だが楽しい。山ぶどうの後処理はやってても楽しくない。山によく行くMさんは果実や草を欲しているようで、よくせっつかれたり、なぜもっと山ぶどうに情熱を傾けないのかと叱咤激励される(?)のだが、情熱の欠片もないところに熱い情熱はやはり育たない。

 

 

 

 

なぜなのだろうか。

 

 

 

最近、山でお知り合いになって、チラチラ覗いてコメントするようになったブログがある。男がやりがちな素っ気のない山記事のようなものではないので、人柄を知った上で読むと案外面白い。昨晩、晩酌したらいつの間にか寝てしまい、夜中に起きてしまったので、そのブログの昔の記事をパラパラ流し読みしていたらそこに答えがあった。

 

草っぱ採りは、畑の収穫作業のように感じるのだ。農家の育ちでも無いし、それで苦労したこともあるわけではないのだけれど。幼少の頃、将監にあったでかい庭がついた借家に住んでいた時期があった。年に一度ぐらい広島からやってくる婆ちゃんと、裏山に土を取りに行き、ソリで土を運んでは庭に畑を作り、野菜をたくさん植えた記憶がある。裏山で土を取って畑を作る作業は楽しかったが、野菜を植えるのも収穫するのも、そっちはまったく関心がなかった。ああ、トマトなったね。かぼちゃついたね。ナスがいっぱい取れたね。それだけ。

 

キノコ探しにはロマンがある。藪を掻き分け掻き分け、その先に、あたりいっぱいに広がるナラタケ畑を見つけた時の嬉しさといったらない。でも待てよ。ヤブをかき分けかき分け、大量の山ぶどう畑をみつけたらやはり同じことではないのか?草っぱ採りが畑の収穫作業のように感じることは分かった。しかしその理由は未だ解明できない。

 

まあいいのだ。キノコ採りにはロマンがあるのだ。

 

S氏ともお知り合いになれたので、今年は夏キノコを是非とも教えてもらわねば。土から生えてくる夏キノコは独学では難しい。やばいのが多いからね。

 

 

秋キノコの到来を告げる夏キノコのタマゴダケ

 

 

 

 

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