追悼

 

こういう場に、挨拶文を書くものではないかもしれませんが、生前の父、母、そして私の意向でもあり、式の一切は執り行いませんでしたので、ご挨拶の言葉は、親しくしていただいていた方、知人、友人、会社の方々にも別途述べさせて頂きました。

強く生きて、立派にその散りざまを息子に見せてくれた父の半生を伝えさせて下さい。

父は、若くして、重度の糖尿を発症しまして、好きだった現場の仕事も離れることになりました。筑波大学の工学部を出て、ゼネコンに入り、高度成長期において、名だたるトンネルの工事の設計、現場管理に携わっていました。私が小学1年生の頃に仙台に転勤となりまして、どこのトンネルかは分かりませんが、月山の近くのトンネルの仕事を現場でやっていたと聞いております。脂の乗り切った30代半ばでしたから、その後は、大きなトンネル工事の一切を任させる予定で、その直前の仕事として仙台支店に移り、現場に向かっていました。その現場で突然倒れ、突発性の重度の糖尿と判明し、その後1年半ぐらい入院しました。

社会保険病院に長く入院していて、見舞いに行くと、小学生だった私が当時集めていた牛乳瓶の紙のふたのキャップを、病棟中から集めていて渡してくれたのを覚えています。退院後も、軽度ならまだしも重度な糖尿でしたので、食事の管理が大変難しく、手を抜くと血糖値が変動するため、外食もままならなくなりました。当然ながら現場の仕事も外れることになり、無念だったと思います。それでも体力づくりは頑張っており、よく帰宅後に外を走っていました。私もたまに付いていったのですが、父は厳しかった。小学3年生ぐらいだった私を待つこともなく、とにかく自分のペースで走っていました。心細くなりながら、夜の道路を追いかけたのを覚えています。

それ以来、家族で旅行に行くことも一切無くなりました。唯一、退院後にお祝いとして青森にドライブと泊まりにいったのを覚えています。小学生でしかない私に、道路のナビを任じて向かいました。何とまあ厳しくとも優しい父だったことか。岩手山も好きだったようで、高速で向かう途中、あまり言葉を発しない父が、岩手山だぞ岩手山!と言っていたのも覚えています。最近母に聞かされましたが、父は山や自然が大好きだったそうです。釣りも好んでいたようです。八ヶ岳なんかにも登ったことがあると聞きました。本当に無口で寡黙な父でしたので、父のことは、母を通して知ることが多かったです。一度だけ釣りを少しだけ教えてもらった記憶もあります。よく覚えていませんが、横から姉が私の釣り竿を取り上げ、糸を木にひっかけて釣りがパーに。泣きながら姉と大喧嘩したのも覚えています。

定年後、ようやく、一息つけるかと思った矢先、今度は、多系統萎縮症という、難病指定のパーキンソン病の一種を発症しました。パーキンソン病ほどゆるやかに進行が進まない分、ある意味では助かるのかもしれませんが、10年程度を掛けて、食道、気道がまず萎縮し、手足が弱っていく症状が多い病気のようです。その通りに症状が進行し、糖尿も持っていることから、きちんと食べなくてはいけないのに、食べることができなくなっていき、痰(たん)も取れず、滑舌もどんどん悪くなっていきました。数少ない楽しみとしていた読書も数年前に出来なくなり、もう1つの楽しみであったネット囲碁も1年前には出来なくなりました。

昨年秋に腸を悪くして入院して退院した後には、生きる気力も失い、ただただ痛みに苦しんでいました。この頃から、糖尿のための栄養管理は諦め、父が好きだったのに食べれなかったアイスやプリンを何十年かぶりに喜んで食べるようになりました。父は最後は本当に苦しんでいました。30kgまで体重は落ち、筋力も無いはずなのに、ものすごい力でベッドの持ち手を掴んで苦しみに耐えていました。

私が不甲斐ないばかりに、結婚後、東京での生活に失敗し、私自身が強度な鬱にかかってしまい、やがて、家族も子も、仕事も失い、こちらに戻ってきました。こちらに戻ってきてからも、欝から脱するのに1年かかり、その後も立派に生きてきたとも言えず、不甲斐ない息子でした。父が苦しまずに逝けなかったのは私が不甲斐なかったせいかもしれません。それこそユズリハでした。

およそ1年前、親しくしている方に山に触れる機会を頂いた後、一念発起し、山に打ち込んでいきました。しばらくして、若い頃よく見ていた後白髪山の更に後ろに、船形連峰の主峰、船形山があることを知り、憧れが強くなっていきました。その頃に、桜井洋次先生の写真集をちどり荘で見ました。雪のある季節の山のなんと素晴らしいことか。その時、写真集の先生の名前も見ていませんでした。感動はしたのですが、羨ましくもあり、ちょっと、むかついたのを覚えています。こんな景色を見れるのが、こんな森羅万象を語れるのが、こんな写真を撮れるのがずるい!と。今は弟子となっているので大っぴらには言えませんが、見た後、写真集を一度テーブルに投げつけてしまいました。何だかくやしかったのです。ずるい!って。

体力もからっきりなかった中年太りのメタボな私でしたが、とにかく雪の残っている間に、後白髪山と船形山に行きたかった。大好きな日没と日の出を山頂から見たかった。怒涛の山行にさらに拍車がついていきました。写真も一眼レフを手にするようになり、撮ってきてはタブレットで母に見せていました。気恥ずかしくて父には直接見せられませんでしたが、母が父に見せてくれていたようです。多系統萎縮症の症例の1つから、顔の表情もでなくなり、声もますます出さなくなっていたので、見て喜んでもらえていたかどうか、その感情は推し量ることはできません。山を始めて半年も経っていない私には、無謀な山行だったとは思いますが、後白髪山と船形山に初登頂した時に作った動画は母も父も喜んでくれていたようです。

それからも事あるごとに船形山に泊まったり登ったりしているうちに、師と仰ぐことになる桜井先生との出会いがありました。あの写真集の桜井先生だとは私は実は名前すら存じ上げていなかったのです。一言二言、山頂小屋で会話を交わしただけだったのですが、変な意味ではありませんが一目惚れでした。この人なら先生と教えをこえると直感しました。生涯、心から先生とお呼びしているのは、桜井先生と大学で教えを頂いた、とある先生達ぐらいです。私はあまり人に教えを乞うたちではないので、数少ない先生の一人となりました。

その後は、森を教えられ、写真を教えられ、撮ってきてはプリントして家中に貼っていました。父は目ももうあまりよくなかったので見てもらっていたかは分かりません。自然が好きだった父でしたからそれでもいいと思って貼っていました。12月になり、いよいよ父の様態は悪くなっていきました。昼に夜に朝に山麓に行っては写真を撮り、奮闘はしていましたが、私の力不足で満足の行く写真は一枚も撮れませんでした。それでも若かった頃の私に戻ったかのように、何かにとにかく夢中になり、突き詰めて猛スピードで突っ走る姿は見せていたかった。

母は知らないと思いますが、随分昔に、年末にNHKの第九を聴いていた時に、第九の合唱はいいよなあ、と父がぼそっと言っていたのを私は覚えています。あとは箱根駅伝も大好きでした。

大晦日の真夜中に、第九を鳴り響かせ、桜井先生とともに母ブナに向かいました。その時に撮った母ブナの写真が父の命日の写真となりました。そして、明けて翌朝には船形山神社の裏手にユズリハがありました。桜井先生曰くの、子の葉が立派に育てば、親の葉が散る、それがユズリハだ。翻って、子が親不孝をしていれば親葉は散ることができない。だからこそ存分に楽しんで人生を生きろと。それが親孝行だと。

父は元旦の夜に、姉と姪が帰省し、それを待っていたかのようにまもなく逝きました。立派に散る姿を、息子である私と、娘である姉に見せてくれました。最後の親の努めを立派に果たしてくれました。強い父でした。

しばらくは大泣きしましたが、笑って見送ってきました。父の冥福を祈ります。

 

友人、知人、ヤマレコで出会いのあった方々にも、心温まるお言葉をいっぱい頂きました。役所での手続き中も、ふがいなくもぼろぼろ泣いてしまっておりました。何とか手続きはほぼ終わり、残るものはゆっくり片付けていきます。皆様方のご厚情に対し、心より御礼申し上げます。

 

喪主 くまぷー

 

 

 

ひとまずは、疲れきって放心してしまっている母を支えてやりたいと思います。昨日、ちどり荘に行って、久々にゆっくりと、母と姉と姪とで湯に浸かり、会食をしてきました。ちどり荘にある桜井先生の写真を見せて回りました。そして母の一言。

「あんたの写真はまだまだだね。まあ先は長いんだからゆっくり頑張りなさい。」

と。ごもっともです。ちーん(笑)

 

桜井先生は遠いです!遠すぎて足元にすら届くかどうか分かりません!
が、船形山から頂いた桜井先生との出会い、船形山の父とも言えるような桜井先生に森のことを教わり、そして今まで以上に楽しみ、写真を見た人に、森や山に入ってみたいと思えるような、弱った心を癒せるような、そんな写真や森遊び山遊びをブログを通して伝えていきたいと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。言ってはいけないのは分かっておりますが敢えて言わせていただきます。

 

新年あけましておめでとうございます。

 

皆様のますますのご活躍を祈念しております。
人生を謳歌しましょう!

 

「母ブナは森の時間でいつでも案内しています」