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笹の一斉開花と枯死

数十年に一度咲くという笹の花。某若主より頂いた写真。笹は大規模、あるいは、小規模に一斉開花し、そして一斉に枯死する植物です。大規模にそれが起こる時は数万~数十万ヘクタールでこの一斉開花が起こる。日本では1960~1970年台前後に各地で大規模な一斉開花と枯死が見られました。山をやる人には馴染み深いあの笹薮に一斉に花が付き、そして一斉に枯れるのです。生命体である以上、進化せぬものは存在しない。笹も同じく、数十年という寿命を持って、最後に一斉開花し、交配し子孫を残すことで進化してきた植物なのです。

 

森を歩いていてると不思議なこと、疑問に思うこと、そして興味深いことが多い。これ程までに文明と社会が発達し、科学がいろいろなことを解明しつつあるとはいっても、生態系のメカニズムや、生物固体のそれについて、実際には分かっていることなど大してない。最近、キノコ採りにはまっているが、菌類と言えばキノコという印象ではあるが、キノコは子実体(しじったい)である。キノコのもとである本体の菌糸は、普段、地中、朽木、あるいは木の根の中やそばで活動している。ある条件でトリガーが引かれ、子実体を形成することで胞子を形成し、拡散する。いわば菌界の花である。その菌糸、菌界にはおよそ200万種弱が地球上に存在すると言われているが、既知菌糸は10万種弱に満たない。固体の同定ですらその程度なのだ。菌界も含めた森林生態圏に関してなどは、ほとんど分かっていないに等しい。

 

笹の一斉開花と枯死も興味深いのだが、もう1つ、ブナなどの広葉樹の結実量に関するマスティングを面白いと思っている。

 

その前に余談。

 

余談その1 舞茸

ところで話は再びキノコに戻るが、本体である菌糸は地中や朽木、木の根の中やそばにおいて、想像以上の種類の菌糸が活動している。キノコといえば舞茸、松茸、あるいは、椎茸などがまず浮かぶが、これらのキノコ(子実体)が出なければそこにその菌糸が無いというわけでもない。腐朽菌である舞茸の菌糸などがいい例であるが、毎年同じ場所に舞茸が出てくるとは限らない。かといって、その朽木(主にミズナラ)に舞茸の菌糸が活動していない訳ではない。それどころかありとあらゆる朽木に舞茸の菌糸も僅かには存在し、活動していてもおかしくない。舞茸の菌糸が子実体を作り、いわゆる舞茸を実らせる時には、その朽木のその部分において舞茸の菌糸が十分に増えている必要がある。朽木のある部分において、舞茸の菌糸が運良く十分な密度を持って広がったときに子実体を作る条件が整い、舞茸を実らせる。

 

余談その2 松茸

一方、高価で珍重される松茸は、腐朽菌ではなく、松の根の傍で、木とともに共生する外生の菌根菌である。近年、国内産松茸は減産し続けている。取り過ぎなのかもしれないが、傘を開いて胞子が外に出る前の物を人が好むことも理由にあるのかもしれない。あるいは松茸が好むアカマツの林床が減っているのかもしれない。文献によれば、大正時代において、松茸は今では考えられない収穫量があり、椎茸の十分の一以下の価格で取引されていたこともあるようだ。豊富な収穫量があった理由の1つとして有力なのが、現代風に言えば自然破壊である。当時、木材用途として多くの里山がはげ山にされた。松、杉、ブナやありとあらゆる木材は人によって倒され、燃料や生活用の木材として使われた。そして、そういったはげ山ではほっとくとアカマツが育ちやすいようで多くの松林が生まれた。そんな松が優占種となる里山が多く存在することとなった。「蹴飛ばすほどに松茸が取れた」といわれていたのである。ところでこの松茸、人工栽培を目指して研究する人もいる。(他の菌糸に較べて)あまり繁殖力の高い菌糸ではなく、腐朽菌ではないこともあいまって、未だに人工栽培は実現できていない。菌根菌であるタマゴダケも同様である。世の中にはいろんなことを研究している人がいる。

 

 

余談その3 山の恵み、自然の恵み

人はその生活のため、社会のために、自然を利用し、あるいは破壊しながらここまで辿り着いている。人類にとって生きるための自然の利用は、人口を考えれば既にオーバーユースであり、自然の恵みをもって楽しみ、食い、生活しようとしても、それは限られた人しかできない。皆がそれをやろうとすれば、現存している自然などあっという間に駆逐される。言ってみれば、キノコを自分で取って食べるなど、贅沢の極みなのだ。毒キノコが怖くてやらない、山が怖くてやらないといった理由もあるだろうが、皆が皆、天然キノコを望んだところで、それを賄えるだけの恵みを山は供給できない。人という種の個体数は、既に山からの恵みの供給で賄える数をはるかに超えているのだ。ではどうするか。人は椎茸、舞茸、ナメコの栽培法を確立するという手段を編み出すのだ。話は変わるが、近年、たまに話題にあがる、無農薬栽培というものがある。最近では、無農薬りんごというのもが生まれた。本にもなっている。この本は読んでいるが、さぞかし、美味しく、ありがたいりんごなのだろうと思う。この本やそのストーリーは、マスコミにも取り上げられ賞賛された。

しかし、別の観点から見てみると手放しで賞賛してよいものかどうかは疑問である。そのりんごを生み出すまでの苦労、努力、人生、そのりんごの素晴らしさを否定するものではないということはあらかじめ付け加えておく。この無農薬りんごであるが、そもそもりんごというのは非常に虫が付きやすい。農薬無しでは十分な収穫量など見込めない果物である。今の農薬栽培法は、農家何代にも渡る時を経て、農薬と戦いながら、りんごを栽培し続け、苦労の末に確立された今の栽培法なのである。それでは、このりんご、多くのりんご農家が無農薬で栽培したらどういうことになるか。まず間違いなく、人が必要とする食料としてのりんごの供給量を満たすことは出来なくなる。豊かな今の社会においては、りんごを食料と見る向きは少ないかもしれない。果物でありデザートだ。しかし、ありとあらゆる農産物が同じことだ。食料の1つなのは間違いない。無農薬栽培に生産者も消費者も傾倒した場合、社会が必要とする農産物の収穫量は得られるだろうか。おそらく難しいのではないかと思う。そのような観点から見ると、無農薬のりんご栽培とはどういう立ち位置になるのだろう。こうも言えるのではないだろうか。農薬利用のりんご栽培があることを前提としているからこそ成立していると。

いわば山菜、きのこ取りなんかと同じく、ちょっとした贅沢なのだ。嫌みな言い方をするのを恐れずに言えば、それを買うことができる人、時間を惜しまずそういったことをして探し、取り、あるいは育てて食べる余裕のある人にしかそういったものを味わうことはできない。皆がそれをやれば社会が必要とする量は、自然からは得られないし、栽培もできない。社会全体の生産性も確実に落ちる。ちょっと意地悪な側面から無農薬栽培を考えてみたが、その手間を考えればその努力は並大抵のものではないだろうし、農産物によっては同じ土壌面積で農薬栽培と同じ収穫量を得ているものもあることは付け加えておきたい。キノコ取りなども、人が皆、それをできないことをしっかり認識して存分に味わわなければならない。

 

余談その4 自然

「自然とは何か」というテーマは難しい。自然を定義すること自体すら難しい。人の社会も近代化され、自然や動物を愛護する考えや団体も生まれている。自然を楽しむことを好む人であれば、その人が考える自然が破壊されればもちろん悲しい気持ちになる。しかし無農薬栽培の話ではないが、人は自然を利用し、破壊せねば発展してこれなかったのもこれまた事実なのである。海から魚を取り、海の恵みを得、山から肉や山菜や木材を取り、平地で農耕をし、町を築いて社会を営む。しかし、山からも海からのその恵みを得つつ、取り過ぎたり破壊しない程度に山も海も維持しようとしても既に人類は増えすぎているのだ。

解決する方法は2つ。人口を減少させるか、別の手法、つまり技術を進化させて、効率よく食料とエネルギーを得るかしかない。生物の使命として、種の方向性として人口を減少させることはできないであろうから、やれることは生産性の増大と効率化しかない。人類が必要とするエネルギーを十分に得られなくなった時、人が何をするかは容易に想像がつく。たとえば日本で石油エネルギーが得られないような社会情勢になったときに人はどうするだろうか。間違いなく残った森林を切り崩して炭を作るだろう。生きのびるためにはそうする以外にはないからだ。そう考えると、文明をさらに発展させることが自然を残すには最有力の手段であると言えるのかもしれないと思えてくる。

 

余談その5 人という自然

自然という定義は難しいが、人とこの社会そのものも自然が産んだ産物なのは間違いない。ちょっと変わった見方をすれば、高層ビルが乱立し、車が走り回り、飛行機が飛び交う社会も、自然が産んだ奇跡の果実なのだ。山や森なんかより、都会生活にこそ心の安寧を感じる人達も多くいる。むしろそういった感じ方こそ、進化の中にある人として、より自然な感じ方であるといっても否定は出来ない。

太古の昔、地球の生命体にとっては母なる海にタンパク質の基本構造体であるアミノ酸が生じた。その時、生命の息吹がそこに生まれた。生命体は、植物、菌糸、細菌、そして動物などへと進化し、やがてその中の種の1つである人が文明を築くようになった。これこそ宇宙の中の1つの惑星である地球が産んだ奇跡なのだ。地球に残存する自然、エネルギーは無限ではない。山、森林、海、鉱物、油。残されたこれらのものを何とか利用しつつ、地球外に生きる術を持つ社会へと、あるいは、完全なる人口調整と遺伝子制御による子孫の継続をさせるような文明を進化、開花せたときに、現存する地球の自然を真に残すことが可能になるのかもしれない。今の私達にとっては、考えることも、受け入れることも出来ない選択肢であるかもしれないが、種の生き残り競争、環境への適応過程は過酷だ。高度な知性を持つことになった人類の次の進化は、そういったブレークスルーのような進化であっても不思議ではない。

 

とかいう余談を書いてたら、笹の一斉開花と枯死どころではなくなったのでまたあらたためて(笑) ま、山や動物や自然とかは、考え出すと難しいんですよね。哲学をもって考えていかないと一歩も進まないぐらいに難しいテーゼなのです。高校生か大学生のころによくこういったことを考えていましたが結論や答えなんて出ません。出ませんが自然を楽しむことだけはできます。だからこそ私は、そういうことはどっかにおいといて、山や森にいるときは、くまぷーをかぶって自然を心から満喫することだけしかしていません。そんなときに難しいことを考えたところで自然を知り、感じることなどはできない。

2 件のコメントがあります。

  1. 笹の花ですか。気に留めたことはなかったのですが、写真のような花が一斉に咲いたら、どんなにか綺麗だと思います。生きている間に見てみたいですね。

  2. おはようございます。

    竹もどうもこのような一稔性の植物のようで、花を咲かせて種を作ると生を終えるみたいです。笹や竹にとっては、四季は無く、数十年が一年の一年草みたいなものなんでしょうね。真竹は120年だと言われていますが、良く分かっていないようです。伝聞とネット情報だけではどうも信じられないので、川内の図書館で、少し本をあさってみたのですが、日本では1960年代前半から中盤にかけて真竹の一斉開花と枯死が各地で起こり、国内の竹林のかなりの部分が枯死したようです。世界でも似たような時期に起こったようです。不思議ですね!

    竹の花も検索してみると写真はみつかります。笹も竹も種類によって枯死しないものもあったり、周期がまちまちだったり、ミステリアスな部分も多いですが。だいたい60~120年。真竹に関しては、私たちは次はみれそうにないですね。笹の一部の種については、あと20年ぐらいで60年になりますのでもしかしたら見れるのかも!?

    とはいっても、私のようなひねくれものはどこにでもいて、部分的に小規模に一斉開花したり、もらった写真のように1本だけ開花するようなケースはあるみたいですから、注意深く笹薮をみてれば出会えるかもですね!

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